太田道池の南土手に
という石碑が建っている。
石碑の文面からみると、大正十四年ごろ、太田の道池の土手で競馬が催されたこと、春祭りなどのにぎわいに、消防団・在郷軍人会それに青年団が協力して競馬が行われたことがわかる。
古老の話によると、走路は廣田神社の北側の森(裏宮)から池の南側の土手を一直線に西から東までで、一回に二三頭ずつで競争したらしい。観客は、廣田神社の参道の松並木の下にむしろを敷いて座り込み、弁当食べながら応援したらしい。走り終わった馬は北の土手を回って、もとに戻り、しばらく休んで、二回は走ったらしい。当時の村としては大変なにぎわいであったらしい。
競馬といえば、近くでは仏生山競馬がある。仏生山競馬は、古く明治三十九年に開催の記録があるが、本格的な競馬が始まったのは昭和四年からで、それも九年間で、長くは続かなかった。太田競馬が毎年開催されたかどかは確かでない。たまたまこの年だけの開催だが、村挙げての共同開催を記念して石碑を建てたという説が正しかろう。